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フレデリック・ロー・オムステッド

文 小出兼久

 

 

このWEBに載せた2つの記事、LIDの概要(08.12.12記載)と革新的な雨水設計(LID):ランドスケープアーキテクトの役割を編集していたら、記事の中で語っている歴史的背景の中で、ロバート・フランスの言った次のような部分が心に残り、しばらくは頭から離れなかった。

・・・フレデリック・ロー・オムステッドの「ボストンエメラルド・ネックレスは、世界の最も有名な都市型水処理湿地であり、非常に美しく設計されているが、それが人為的に構築されたシステムであると推測する人々はほとんどいない」

 

オムステッドは、アメリカで「ランドスケープの父」として認められている偉大な存在である。その作品や遍歴、残された資料などについては、数多くの評論や解説が残されている。恐らく日本では、美しい都市公園を作ったというセントラル・パークの名声だけが注目されているようだが、冷静に考えてみれば、それだけで「ランドスケープの父」とは誰も言わないのは自明である。職能に求められる技術だけでなく、哲学、思想、歴史、プロジェクトを物にする戦略、システム・・・彼が統合を目指した、様々な事柄に思いを馳せる。オムステッドの本当の戦略、そして、その戦略的才能を知るために背景を理解しようとする者はいない。

私は、LIDの中でロバート・フランスが話してくれたオムステッドの功績や、彼の立案していくプロセス、オムステッド自身の洞察力などは、我々が引き継ぐべきものと考えている。何か新たなる地平を見出していこうとする彼の姿勢を、ある部分では学ばなくてはならない。そのことを思えば、日本のこの時勢において、ランドスケープそのものの本質に勢いがないことは、私に閉塞感を抱かせる。
あなた方は、本当のオムステッドの戦略を知っているのだろうか?

 

ニューヨーク

 

ニューヨークでのオムステッド

・・・仮にあなた方の都市の公園を計画し、創作するための提案が必要だというときに、1857年のフレデリック・ロー・オムステッドをあらかじめ知っていたのならば、恐らく彼を雇わないだろう。・・・

その時、彼は35歳。農夫でありジャーナリストであった。そして、アーキテクチャー、エンジニアリング、その他の幾つかの関連する分野の知識を持っていたが、すべて正式に教育を受けたことのない、元船乗りであった。今そのことを知るひとは、どれだけいるのだろうか?

オムステッドは、技術的専門知識を持たなかった。端的に言えば、彼は、ある意味、強いリーダーシップの才能を持っていたというだけだった。しかし、その才能は、レオナルド・バスケスによると、当時、彼に成功するきっかけを与え、彼が成功するのを助けた人たちによって補佐されたと記されている。

 

2008年は、セントラル・パークを作るという裁定が下されてから150周年記念の年である。セントラル・パークは、オムステッドの最初の仕事であるニューヨーク市の主要な公園であるだけでなく、計画においても、ランドスケープ・アーキテクチュアの歴史の中に、素晴らしい経歴を送り出した。そして、後に、米国の至る所で、他の都市のオープンスペースのモデルにもなった。それらは、まさにオムステッド物語の輝きを引き継ぐものなのである。オムステッドは、当時、農場経営者としては苦闘し、ライターとしては売れず、スタテンアイランド(Staten Island)の僻地では失敗した実業家という人間であったが、その彼が、マンハッタンのエリートの後押しによって、彼らの都市のエメラルドオープンスペースの監督者になるのを実現させた。このことは、あまりにハリウッド的夢物語に聞こえる。しかし、それは実際に必然的なものであり、我々が成功するための方法として、いくつかの教訓を提供している話でもあった。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチやトマス・ジェファーソンと同様に、オムステッドは、多彩な才能の持ち主であった。彼の周囲には、影響力のある人脈を持った建築関係の人々がおり、そうした有力者と関係を築けるのものひとつの才能であった。オムステッドは、コネチカットで平凡な家庭で生まれ、彼が今日のニューヨーク市のスタテンアイランド行政区に引っ越した頃は、部外者であった。彼はそこで農場を買うと、農民のための小さなクラブを創設したが、これが、リッチモンド郡農業組合であり、彼はその協会の代表を務めた。そして、オムステッドは、手紙や声明を地元の出版社(例えば今は亡きスタテンアイランダー地区)で出版させることによって、彼の露出を増やした。

しかしそんな農業生活も上手くはいかず、抑圧されているのを知り、オムステッドと彼の兄弟は、イングランドの都市を探検しようと試みた。そこで、彼はハートフォード・カラントのために2、3の記事を書く機会を得て、ジャーナリストとライターとしての道を歩き始めたのである。

そして1857年に、オムステッドは本を書きつつも、セントラル・パークをどうするかを決める初の監督者を指名するために選出された委員会のメンバーに会うことになる。オムステッドは、彼に、こういう公園の価値について熱心に話し、そして、その委員会のメンバーは、オムステッドにその(監督者の)仕事を求めるようと誘ってくれた。彼がこの委員に会ったのは、まぎれもなく幸運な出来事だったろう。しかし、オムステッドがその後にしたことは、戦略的だった。彼は、自分の立候補を支持してもらうよう、彼のネットワークに接触しようとしたのである。

『自らの活動が、近年彼を著名で各種の責任ある地位の人々と接触させたので』、と、伝記作者ローラ・ウッド・ローパーは言い、さらに、次のように続ける。『オムステッドがスポンサーの票を取り付けるのは、難しいことではなかった。』このかいあってか、8対1の投票結果によって、オムステッドは公園の創設を管理する監督者に選ばれている。

)スタテンアイランドはニューヨーク湾の入口に位置し、北はマンハッタンと、東はブルックリンと、西にニュージャージー州と隣接している。地理上は「島」だが、地学上はハドソン川の一支流によって内陸と隔てられてしまったニュージャージー州側土地の一部である。 スタテンアイランドはニューヨーク市の行政区の一つだが、他の四つの行政区と同様にそれ自体で郡をなしており、これをリッチモンド郡という。その名称は、1975年までここの行政区名が「リッチモンド」だったことに由来する。

 

策を弄する

オムステッドは、自身が良い運動員ということを証明した今、次に、優れた政治的手腕を実証しなければならなかった。当時のニューヨーク市は、タマニーホール(派:ウィキペディア参照)支配集団(民主党の一部)によって運営されており、ニューヨーク州議会は、公園の管理をニューヨーク市から取り上げた後、それを、ほとんど共和党員から構成されていた委員会に与えていた。監督者としてのオムステッドは、委員会がタマニー派の手中であった頃に選ばれた、チーフエンジニアのEgbert Vieleの監督下にあり、労働者の多くは、後援任務として雇われて、公園建築でなく選挙で助けるためにそこにいるという状況であった。オムステッドにとって、決して働きやすい職場であったとは思われない。しかし、彼は、一生懸命に現場で働き、従業員のあざけりや冗談にも厚顔で通した。そして、委員会が労働者を解雇して、経済不況の時期に失業者の怒りを静めるために新しい人を雇ったとき、この機会を使って、有能な労働者をつかまえるようにした。委員会が監督者を選出した後には、公園設計のコンペが開かれた。

オムステッドは、建築家カルバート・ボーに競技に参加するために彼に協力するように誘われた。このとき、オムステッドは政略的に賢く、Vieleが反対するかどうか判断するために様子を見たという。Vieleは反対しなかった。ボーとオムステッドは、グリーンスウォード(それがのちにセントラル・パークになった)と呼ばれる設計を共同で発達させた。勝利を得た設計はいかなる個人もクレジットを書いてなかったので、誰の手がどこに寄与したのか、それは明白でなかった。これはオムステッドの成功のもう一つの要因である。
彼は、個人としては野心的であったが、それ以上に、チームワークを熟知していており、時として個の合計よりも全体のほうが重要なことがあり、まさに今がその時であることを正確に理解していたのである。

反省的実践者

我々は今日、オムステッドを反省的実践者と考える。我々は彼の仕事についてより深い質問をし、より多くの現状についてもっと学びたいと思う。彼は、公園計画を越えて、公衆衛生とコミュニティー計画を見つめていた。もしオムステッドが、人々と関係を築けず、コミュニケーション技術がなく、反省的実践者でもなかったならば、彼は単に人々に、南ニューヨーク州の地方村落で一人奮闘する農夫として、記憶されていただろう。

『彼の履歴には、彼の農場の賃金を作れなかった農夫としても、評判だけを作った作家としても、彼の能力を示唆するも破産してしまった出版社のことも、何も記されていない』と、ローパーは言う。

しかし、オムステッドは、『複雑な問題を把握する展望、それらを分析する鋭敏さ、全体と細部の釣り合いをとって見るバランスの良さ、解決を導くための学問と想像力』を持っていたのだ。

 

オムステッドの戦略から導きだされる、我々の実践と職に対する教訓とは何だろうか?

  • ・ 参加して人と知り合いになること。
    それは、都市設計委員会の会合に参加することと、長期的なレポートにおけるもう一つの人口統計学的な席を先鋭化することなどの選択である。

  • ・リーダーシップ技術を構築すること。
    オムステッドは、まさに、政治現実に押しつぶされたもうひとりの、才能のある思想家であったはずである。オムステッドは、スマートであることは、それだけで決して十分ではないということを知っていた。

  • ・思慮深くて、深い質問を探求すること。
    何をするか、どうするかではなく、自分自身に、「なぜするのか」「なぜしないのか」「それをすると何が起こるのか?」という問いかけをする。

  • ・様々な人々から、多様な意見を受け入れること。

オムステッドの戦略と仕事について、多くの本と研究者がいる。創造者フレデリック・ロー・オムステッドから、学ぶべき事は沢山ある。あなたも探してみてはいかがだろうか。